タカハシ

19歳の学生のブログ

東日本大震災を経験した子供

風化させてはいけない。
(山田町 19 K)

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あの壮絶な災害から8年。今では遠い昔のように感じる。

2011年3月11日14時46分 東日本大震災が私の地元山田町を襲った。
当時小学5年生だった私は6時間目の図工の授業を受けていた。
授業も終盤になり、片付けを始めているときだった。
それまでは他愛もない話や、卒業式準備の話で声が途絶えなく飛び交っていた教室が一瞬で静かになる。

地震だ。
「震度2~3程度か?大きくないな」

最近やたらと地震が多かったせいもあり、危機感が薄れていて起きた直後はそれほど恐怖心を抱く者は多くはなかった。
しかし、10秒、20秒としても静まる気配がしない。むしろ大きくなっている気がした。
そう自分が感じ始めたころにはもうすでにみんなが勘付いていたはずだ。
何か大きなモノを失ってしまうと。

次第に大きくなっていく地震は教室のものを次々となぎ倒していく。
テーブルの上の絵の具バケツ。掃除用具箱。そして私たち。
一瞬で教室は悲鳴や、鳴き声、小さな震える独り言。神に祈っているものもいた。
先生でさえ経験したことのないほどの地震にパニック状態に陥っていてまともな指示を出せず
「机の下に入って!」
を連呼していた。
数分してやっと地震がおさまった。避難訓練とは違う経路で校庭に出ると自分たち以外の学年が体育座りをして待っていた。自分たちが合流したところで校長先生が待機の指示を出した。みんな声には出していないものの、不安な気持ちが顔に現れて校庭が負のオーラにまとわれていた。
先生たちが前のほうに集まって話し合いをしている最中にクラスの誰かが津波の話をした。
するとみんなは頭の中が津波のことで精いっぱいになっていた。
数分が過ぎある先生が山に避難しようと言いだし、一年生から順に山の方へと向かっていった。

歩き出してすぐに

「走れ~~~~!!!」
という大声が聞こえた。私は最後尾をあるっていたのですぐさま振り返る。
すると一人の先生とともにどす黒い水と家や木がすさまじい勢いで流れてくる。

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その瞬間私の中で時が止まった気がした。
あまりにも非日常な情報が一気に流れ込んできたため脳がフリーズしてしまっていた。
私の意識がはっきり戻ったころには体は今までにない程の全力疾走をしていた。
今思うとこれが人間の本能なのだと感じる。
山につき先生が一人一人の点呼を取る。
幸い誰も波に攫われることなく生徒176人全員助かった。
私は山に登っている最中に人間の心の奥の汚さを見た。
今まで発行されている小学校の震災の文面には上級生が下級生を引っ張って登ったと書かれているが、真実はそうではなかった。
我が、我がと他人を気にせず人込みをかき分けていく先生。
パニックになって足が止まっている一年生に誰も手を差し伸べることのない状況。
地獄そのものだった。

その日の夜、道も家も学校も流された私たちは高台にあるお家に一学年ごとに泊まることになった。
外では近くの住人や一部の保護者、先生などが大きな焚火を作って輪になり話し合いをしている。
皆が空腹を口には出さないものの、顔ににじみ出でいたのを察した大人たちは一人一つずつ角砂糖を配った。
その時私の父親を見つけた。親が心配だった私はほっと胸を下す。
しかし母親がどこみも見当たらない。必死に探したがいない。違う場所に避難したのだろうか?疑問に思い父親に尋ねる。
「おかぁ(母親)は?」
その時の父親の表情は今でも鮮明に覚えている。
私を不安にさせないようにすごく不器用なつくり笑顔だけをし、何を言わず自分の分の角砂糖を渡し、頭を撫でた。
当時11歳だった僕でもその数秒ですべてを悟った。
私はその場では泣かず夜中の森に入り燃え盛る山火事を見ながら一人で涙が枯れるまで泣いた。


気づいたら朝になっていた。
私が目を覚ました頃には、近くの消防隊員がカチカチのとても冷たい小さなおにぎりを配っていた。
空腹の限界だった私ももらい一瞬で平らげた。正直味はどうでもよかった。

お昼前には家が大丈夫な人は一時帰宅となり、
家を流された人はもっと安全なところに避難しようということになり移動することになった。
ずっと山にいたせいで流された町の光景を見ていなかったが下りてみたら想像を絶していた。崩れた校舎、なぎ倒された大木、ひっくり返る船や車、泥まみれの道路
まさに地獄絵図だったと思う。

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避難所に向かう道のりには消防隊員が道脇によけた死体が横たわっていた。大人たちはマネキンと言い張っていたが、信じる子供はいなかっただろう。

避難所についたころには団結力が高まっていてみんなであるものでご飯の支度をした。
震災後の最初のまともな食事は少量の白米、少量具無し味噌汁、一口程度のヒジキに一口程度の切り干し大根だった。

そんな生活が2,3日続いたころに離れた中学校に避難していた兄と合流した。

避難所での生活は苦しくも友達や家族がいることで少しは気持ちは楽になっていった。
1週間たったころだろうか

近くに手作りのお風呂ができた。

木製の壁にドラム缶が一つ。

今思えばとてもお風呂とは言えないクオリティーだった。
しかしそんな気持ちは微塵も抱かなかった。
お風呂には長い行列ができていた。
誰一人割込みをしようとするものはおらず日本人らしさを感じた。
私たち三人の番が来た。持ち時間は3分程度。温度調節はできるはずもなくほぼ沸点に近いんじゃないかと思はれるお湯を桶に入れ体を流す。
普段なら毎日入っていて当たり前だったものにありがたみを感じ何とも得割れない気持ちになった。
それから数日が過ぎた。
私たちの家族に残された車は軽トラックしかなかった。
しかし瓦礫が邪魔で動き出すことができない。
私たち三人と後から合流したおじいちゃんで取り出す作業をする。
一時間がたっても一向に進む気配がない。
私たちも人間だ。動けば当然腹が減る。当然十分なご飯は用意できるはずもなく4人で小さな羊羹3個を少しづつ食べる。10分ほどかけ。

無事に取り出せた頃には日は暮れていた。
しかし休むよりも先に車を走り出せた。
軽トラックに男3人。兄は当時中一、私は小5。どちらも背は周りより高い方だったこともあり助手席はパンパンになっていた。

車を走らせ15分ほどで近くの高校についた。
姉の避難所だ。
2週間ぶりにあって元気そうで少しは心が落ち着いた。

いつの日か雪が降った。
その日を水くみは困難を極めた。
寒さで今にもちぎれそうな指。避難所につく頃には感覚はなくなっていた。
しかし待っていたお年寄りに感謝の言葉をかけられた瞬間にそんなことはどうでもよくなった。

1か月が過ぎある団体が来た。もう名前や顔は覚えていない。
しかし赤髪と緑髪のおじさん二人だった。
その方たちはたくさんのおもちゃや、遊具をくれた。
退屈な避難所生活に少しだが光が差した。
何でか分からないが最初にゴルフのおもちゃで野球した。1日で球の8割を失った。

毎日の唯一の楽しみは近くの避難所の炊き出しに行くことだった。
カレーライスと豚汁の日はだめだとわかっていたが2回並んだ。

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渡してくれる人も気づいていたが微笑んで渡してくれた。
あの時は子供だからいいだろうと心のどこかで思っていたが人の温かさに甘えていた。
それに気づいた時から辞めた。


それから2か月がたった頃に仮設住宅に移動することになった。

 


震災から8年。
人より多くのモノを失った。
でも震災を通して多くのモノを得た。
もちろん震災なんか起きなきゃよかったと毎日思う。
何で俺なんだ。なんで俺の家族なんだ。と思う。
でもマイナスの事が起きてしまったことは変わらない。
だからすべて悲劇と捉えることを辞め、経験と捉えることにした。
19歳でも生きていれば苦難は少しはあった。でもあの時のつらい経験を思い出し頑張ることができた。

もし震災が起きたらみんな少しでも手を差し伸べてほしい。
お金を出すことだけが支援じゃない。
声をかけるだけでいいと思う。被害者に耳を傾けるだけでいいと思う。
目に見えるものが支援じゃない。


私はこの文章を通して風化している震災の記憶を思い出し、今の自分を見直してほしい。
当たり前だと思っていることがなくなったらどうするか。
家族や友達に感謝を伝えているか。
あの時経験したことを今の生活に生かし、突然失った時に後悔しない生き方をしてほしい。
私たちは一人じゃない。